国民性・風土

ミャンマーでは、現在、外国資本の投資推奨措置が取られており、外資法に基づく優遇措置を利用して会社を設立することができます。
外資法に基づく優遇措置を受けた場合、稼動する企業には全て、30%の一律税率が適用されますが、事業開始から3年間は法人所得税が免除されます。
さらに国家に利益があると認められる場合には、ある一定期間の追加的免除あるいは減免の措置が与えられます。
まずは、外資法に基づく措置を受けて会社を設立するか、措置を受けずに会社を設立するかを決めることが重要です。
ミャンマー基礎知識
人口 | 約6,300万人 |
首都 | Naypidaw(ネピドー。王都を意味する) |
産業 | 農業65%(稲作が中心)、商業9%、製造業5%、その他21% |
面積 | 約68km²(日本の約1.8倍) |
GDP | 約502億ドル |
一人当たりGDP | 約804ドル |
GDP成長率 | 5.5% |
インフレ率 | 6.7% |
失業率 | 4% |
宗教 | 上座仏教89%、キリスト教4.9%、イスラム教3.9%、ヒンドゥー教0.5% |
ナツ信仰 | ナツ信仰とは、現地の精霊信仰であり、現世利益や祟りの予防として90%以上が信仰しています。現在のミャンマー人の国民性から宗教として取り扱わず、風習・風俗として取り扱うことをおすすめします。 |
民族 | ビルマ族 約68%、シャン族 約9%、カレン族 約7% ※政府公認民族数:135部族(主要8部族:バマー、シャン、カレン、アラカン、モン、チン、カチン、カヤー) |
言語 | ビルマ語(公用語)、シャン語、カレン語、英語、日本語 など |
通貨 | チャット(kyat) |
政治 | 共和制 大統領制 |
気候 |
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ミャンマーの歴史
ミャンマーの近代史
第二次世界大戦後から、ビルマ連邦建国
1942年、アウンサン率いるビルマ独立義勇軍は、イギリスからの独立を果たすため、日本軍とともにイギリス軍と戦い、日本の支援を受けビルマ国が建国される。
しかし、第二次世界大戦で日本軍の敗色が濃くなると、ビルマ国政府に対してアウンサンが指揮する軍事クーデターが起こり、ビルマ国は滅亡する。ビルマ国民軍が連合国軍に協力し、連合国が勝利しビルマを奪還するが、イギリスはビルマの独立を認めず、ミャンマーは再び、イギリス領になる。その後、1948年にイギリスから独立し、ビルマ連邦が建国された。
クーデター後からのビルマ式社会主義の挫折から軍事政権の長期独裁
1962年の軍事クーデターを成功させたネ・ウィン将軍は、革命評議会を結成し議長になる。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法を制定し、大統領に就任した。軍によるビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成し、ソ連型・中国型とも異なる第三の社会主義(人間と環境の相互関係構築)を目指した。
1974年の社会主義憲法の施により、形式的な民政移管、ビルマ社会主義計画党(BSPP)の一党支配の合法化し、市民自由の抑圧が進行した。1988年まで軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗により深刻なインフレが発生し、1988年にネ・ウィン大統領の退陣と民主化を求める運動が起こり、ネ・ウィン大統領はビルマ社会主義計画党(BSPP)議長を退陣した。
長期軍事政権から現在
1988年に政権を離反した軍部が、再度クーデターを成功させ再度、ビルマ連邦へ改名し、1989年にビルマ連邦からミャンマー連邦へ国名を改名した。軍事政権は、1990年実施された総選挙前に、民主化指導者アウンサン・スー・チーを自宅軟禁した。1990年の総選挙では、アウンサン・サン・スー・チーが指導する国民民主連盟 (NLD)と民族政党が圧勝するが、軍事政権は、民主化勢力を弾圧し、総選挙当選者は国外に逃れ、ビルマ国民連合政府(NCGUB)を樹立した。
2007年に軍出身のテイン・セイン首相が就任し、2008年に新憲法案に国民投票を実施、可決され民主化が図られ、2011年に新憲法にもとづく総選挙が行われ、アウンサン・スー・チーは軟禁が解除された。
第二次世界大戦から現在までの年表
1945年8月 | 日本軍降伏 |
1945年10月 | インドからビルマ政庁復帰 |
1946年6月 | イギリスの対ビルマ政策転換(対決姿勢からパサパラ・アウンサンを重視する姿勢へ) |
1946年9月 | アウンサンほかパサパラメンバーの行政参事会入り |
1947年1月 | イギリス・ロンドンにて、Aung‐San=Attlee協定調印、行政参事会の暫定政府化 |
1947年2月 | パンロン協定調印(連邦制の樹立) |
1947年4月 | 制憲議会選挙(パサパラの圧勝) |
1947年7月 | アウンサンら行政参事会のメンバー暗殺(「悲劇の英雄」「国家的英雄」としてのアウンサン像が確立される) |
1948年1月 | ビルマ連邦独立、ウー・ヌ(U Nu)が初代首相に就任 |
1949年 | 中国国民党軍がシャン州に侵攻し、中国共産党に対するゲリラ闘争を行い、その活動をアメリカCIAが支援 |
1962年3月 | ネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP)の最高指導者になり、大統領に就任 |
1974年1月 | ビルマ連邦社会主義共和国憲法を制定 |
1988年3月 | 全国的に反ネィウイン活動、民主化要求運動が学生を中心に始まる。やがて、市民、公務員が合流する(軍人は合流しない) |
1988年 | ネ・ウィン大統領の退陣、軍事クーデターにより、ビルマ連邦に改名 |
1988年9月 | アウンサン・スー・チーの国民民主連盟(NLD)結成。スー・チーは書記長就任 |
1989年6月 | 国名をミャンマー連邦(The Union of Myanmar)に変更 |
1987年7月 | アウンサン・スー・チー、第一回自宅軟禁(1995年7月まで) ※自宅軟禁期間中、国民民主連盟(NLD)が総選挙で圧勝するも、軍政権は政権の委譲を行わず |
1997年7月 | ASEAN加盟 |
1998年9月 | 国民民主連盟(NLD)は国会代表者委員会を発足し、軍政権と対立 |
2000年9月 | アウンサン・スー・チー、第二回自宅軟禁(2002年5月まで) |
2003年5月 | 都市ティべインでアウンサン・スー・チー一行の襲撃事件(100名前後の死亡・負傷者。NLD側のみ数百名の逮捕) |
2003年5月 | アウンサン・スー・チー、第三回自宅軟禁(2010年11月まで) |
2007年8月 | 燃料費の大幅値上げを原因としたデモの発生後、僧侶デモに発展 (2007年9月まで) |
2008年5月 | サイクロンによる大規模被災(犠牲者13万人 被害者240万人) |
2008年5月 | 新憲法承認の国民投票を実行 |
2010年11月 | アウンサン・スー・チー、自宅軟禁から解放 |