ミャンマー基礎知識

国民性・風土を学ぼう!ミャンマー基礎知識
ミャンマー地図

ミャンマーは130以上の少数民族が住む多民族国家で、国土は日本の約1.8倍、北はインドと中国、西はバングラデシュ、東側はラオスとタイに接し、南はベンガル湾とアンダマン海を望みます。

豊富な天然資源があり、人口は6,000万人を超え、今後、大きな経済発展が期待され投資先として注目されています。

伝統的に日本と友好関係があり親日的で、仏教徒が多いため日本人と国民性が類似しています。ビルマ語と日本語の文法が似ており、日本語の習得能力や理解力の高さと国民性の類似により、日本人と一緒に仕事をしやすいといわれています。

ミャンマー基本情報

人口 約6,300万人
首都 Naypidaw(ネピドー。王都を意味する)
産業 農業65%(稲作が中心)、商業9%、製造業5%、その他21%
面積 約68km²(日本の約1.8倍)
GDP 約502億ドル
一人当たりGDP 約804ドル
GDP成長率 5.5%
インフレ率 6.7%
失業率 4%
宗教 上座仏教89%、キリスト教4.9%、イスラム教3.9%、ヒンドゥー教0.5%
ナツ信仰 ナツ信仰とは、現地の精霊信仰であり、現世利益や祟りの予防として90%以上が信仰しています。現在のミャンマー人の国民性から宗教として取り扱わず、風習・風俗として取り扱うことをおすすめします。
民族 ビルマ族 約68%、シャン族 約9%、カレン族 約7% ※政府公認民族数:135部族(主要8部族:バマー、シャン、カレン、アラカン、モン、チン、カチン、カヤー)
言語 ビルマ語(公用語)、シャン語、カレン語、英語、日本語 など
通貨 チャット(kyat)
政治 共和制 大統領制
気候 ・中央平原地帯(上ビルマ中心部)乾燥地帯(熱帯モンスーン=サバンナ気候)主な農産物:稲作、灌漑稲作

・下ビルマ地帯(下ビルマ中心部)湿潤地帯(熱帯モンスーン気候)主な農産物:天水稲作

・西部・北部・東部の山地:熱帯モンスーン気候+高山気候。主な農産物:林生産物の伐採搾取

ミャンマーの歴史

ミャンマーは、古来より多様な民族が流入し、インドからピュー族、カンボジアからモン族、ヒマラヤ山脈からモンゴル・ビルマ族、タイ北部からタイ族など、少数民族が現在のミャンマーに流入し、複雑な歴史を繰り広げてきました。

10世紀以前には、南部にモン族、北部にピュー族による国家があり、その後、北方から南下してきたのがチベット・ビルマ語系のビルマ族です。11世紀には最初の統一王朝がバガンに築かれ、今のミャンマーの基礎となり、いくつかの王朝が繁栄と滅亡を繰り返していきます。

13世紀にモンゴルの侵攻を受けてバガン朝が滅び、16世紀にはタウングー朝がバガンを復興し、タイやラオスの国家を制して大ビルマ国家を造り17世紀に衰亡します。

18世紀中頃にコンバウン朝が再びミャンマーを統一しますが、イギリス領インドへ侵攻し、英印軍との戦争の結果、王朝は滅亡し、イギリス領インドに併合されました。

ミャンマーの近現代史

1942年、アウンサン率いるビルマ独立義勇軍は、イギリスからの独立を果たすため、日本軍とともにイギリス軍と戦い、日本の支援を受けビルマ国が建国される。

しかし、第二次世界大戦で日本軍の敗色が濃くなると、ビルマ国政府に対してアウンサンが指揮する軍事クーデターが起こり、ビルマ国は滅亡する。ビルマ国民軍が連合国軍に協力し、連合国が勝利しビルマを奪還するが、イギリスはビルマの独立を認めず、ミャンマーは再び、イギリス領になる。その後、1948年にイギリスから独立し、ビルマ連邦が建国された。

1962年の軍事クーデターを成功させたネ・ウィン将軍は、革命評議会を結成し議長になる。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法を制定し、大統領に就任した。軍によるビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成し、ソ連型・中国型とも異なる第三の社会主義(人間と環境の相互関係構築)を目指した。

1974年の社会主義憲法の施により、形式的な民政移管、ビルマ社会主義計画党(BSPP)の一党支配の合法化し、市民自由の抑圧が進行した。1988年まで軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗により深刻なインフレが発生し、1988年にネ・ウィン大統領の退陣と民主化を求める運動が起こり、 ネ・ウィン大統領はビルマ社会主義計画党(BSPP)議長を退陣した。

1988年に政権を離反した軍部が、再度クーデターを成功させ再度、ビルマ連邦へ改名し、1989年にビルマ連邦からミャンマー連邦へ国名を改名した。 軍事政権は、1990年実施された総選挙前に、民主化指導者アウンサン・スー・チーを自宅軟禁した。1990年の総選挙では、アウンサン・サン・スー・チーが指導する国民民主連盟 (NLD)と民族政党が圧勝するが、軍事政権は、民主化勢力を弾圧し、総選挙当選者は国外に逃れ、ビルマ国民連合政府(NCGUB)を樹立した。

2007年に軍出身のテイン・セイン首相が就任し、2008年に新憲法案に国民投票を実施、可決され民主化が図られ、2011年に新憲法にもとづく総選挙が行われ、アウンサン・スー・チーは軟禁が解除された。

第二次世界大戦から現代までの年表

1945年8月 日本軍降伏
1945年10月 インドからビルマ政庁復帰
1946年6月 イギリスの対ビルマ政策転換(対決姿勢からパサパラ・アウンサンを重視する姿勢へ)
1946年9月 アウンサンほかパサパラメンバーの行政参事会入り
1947年1月 イギリス・ロンドンにて、Aung‐San=Attlee協定調印、行政参事会の暫定政府化
1947年2月 パンロン協定調印(連邦制の樹立)
1947年4月 制憲議会選挙(パサパラの圧勝)
1947年7月 アウンサンら行政参事会のメンバー暗殺(「悲劇の英雄」「国家的英雄」としてのアウンサン像が確立される)
1948年1月 ビルマ連邦独立、ウー・ヌ(U Nu)が初代首相に就任
1949年 中国国民党軍がシャン州に侵攻し、中国共産党に対するゲリラ闘争を行い、その活動をアメリカCIAが支援
1962年3月 ネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、ヒルマ社会主義計画党(BSPP)の最高指導者になり、大統領に就任
1974年1月 ビルマ連邦社会主義共和国憲法を制定
1988年3月 全国的に反ネィウイン活動、民主化要求運動が学生を中心に始まる。やがて、市民、公務員が合流する(軍人は合流しない)
1988年 ネ・ウィン大統領の退陣、軍事クーデターにより、ビルマ連邦に改名
1988年9月 アウンサン・スー・チーの国民民主連盟(NLD)結成。スー・チーは書記長就任
1989年6月 国名をミャンマー連邦(The Union of Myanmar)に変更
1987年7月 アウンサン・スー・チー、第一回自宅軟禁(1995年7月まで)
※自宅軟禁期間中、国民民主連盟(NLD)が総選挙で圧勝するも、軍政権は政権の委譲を行わず
1997年7月 ASEAN加盟
1998年9月 国民民主連盟(NLD)は国会代表者委員会を発足し、軍政権と対立
2000年9月 アウンサン・スー・チー、第二回自宅軟禁(2002年5月まで)
2003年5月 都市ティべインでアウンサン・スー・チー一行の襲撃事件(100名前後の死亡・負傷者。NLD側のみ数百名の逮捕)
2003年5月 アウンサン・スー・チー、第三回自宅軟禁(2010年11月まで)
2007年8月 燃料費の大幅値上げを原因としたデモの発生後、僧侶デモに発展(2007年9月まで)
2008年5月 サイクロンによる大規模被災(犠牲者13万人 被害者240万人)
2008年5月 新憲法承認の国民投票を実行
2010年11月 アウンサン・スー・チー、自宅軟禁から解放

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